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第十一編 近づく創立百周年

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第十三章 移りゆく学生生活

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一 社会状況の変化と大学

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 昭和二十年代末から四十年代後半にかけて、日本経済は高度成長を遂げ、四十八年、五十四―五十五年の二度に亘る石油危機を経て、「安定成長」へと移行していった。高度経済成長は、産業構造・経済構造を大きく変え、社会に大きな変容をもたらした。新技術・高度技術の開発・導入が競って行われ、労働力需要が上昇して、膨大な「サラリーマン層」が形成され、人口が大都市に集中した。労働力需要の上昇により高賃金がもたらされたが、他方、コスト上昇によって物価も上昇していった。このような状況を背景として、高等学校、更には大学などの高等教育機関への進学が一般的になっていき、大学生はもはや特別のエリートではなくなったのである。

 高等教育機関への進学率の上昇は、経済成長に伴って国民の生活にゆとりが生じたからだけでなく、産業技術や経済システムの高度化が高等教育修了者を大量に需要したからでもあった。そして、高等教育機関への進学率の上昇を支えたのが、第二次世界大戦後の我が国の教育体制の基本理念である教育の機会均等と男女共学であった。この教育体制の下、女子学生が大量に出現してさまざまな波紋を社会に投げかけ、三十年代後半には「女子学生亡国論」という言葉さえ生み出されたのである。

 高等教育機関、特に大学への進学率の上昇は大学教育をマス・プロ化し、大学の大衆化を現出したが、その一方で、マス・プロ教育の矛盾の現れとして大学紛争を激発させた。大学の大衆化は、人々に大学を身近なものと感じさせたが、その反面、大学の序列化を必然ならしめた。殆ど誰もが平等に大学へ進学できる条件が整うと、より高い社会的評価を受けていて就職に有利だと考えられる大学へ入ろうとして、進学希望者の意識の上で却って大学の差別化が進んだからである。こうして、特に戦前以来のいわゆる一流大学と評される少数の大学に進学希望者が殺到し、受験戦争と言われる過当競争の状況が生み出されたのである。それは、学歴偏重の風潮と相俟って、熾烈な様相を呈した。受験戦争は大学入学にとどまらず、高等学校や中学校の入学にも波及し、よい生活を送るためには一流企業へ、一流企業に入社するためには一流大学へ、一流大学に入学するためには一流高校へ、更には一流中学へという、学歴至上主義とでも言ってよい風潮が醸成されたのである。そうした中で、大学は就職斡旋の場となっていったのである。一方、企業側も労働力を大量に必要とするところから、大学での専門的な知識の習得を度外視して学生を採用し、「何を学んだか」ではなく、「どこの大学を出たか」を最重要基準としたのである。このような社会の変容の結果、大学はその教授内容が重視されるのではなく、学歴としての学校、ブランドとしての大学が意識されるようになっていった。大学、特に一流大学に入学することが、自己目的化され、最終目標とされるようになっていったのである。

 このことは、必然的に学生の大学観を変えざるを得なかった。もはや大学は学問の場ではなく、就職するための窓口、就職するまでの待機場として、意識されるようになっていった。このような意識の変化は、いわば、社会的要求からくる必然であった。大学生としての教養は追究されず、手にする書は専門学術書、文学作品、哲学的著述から、四十年代の漫画の隆盛を背景に、漫画雑誌へと変っていったのである。

 他方、人口の都市集中が促された結果、「核家族」という言葉に象徴される少人数の家族形態が一般化した。子供が一人だけの家庭も珍しくなく、戦前に比して少い子供を育てるようになったから、親の子供に対する期待が膨らみ、また却って目が届きすぎるため、痒いところに手が届くような子育て、「過保護」が一般的な傾向として見られるようになった。それは、親に自己満足をもたらしたが、子供の自立や自律が阻害されるという現象をもたらしたのである。その結果、自己中心的で幼稚な考え方しかできない学生が増加し、大学生活の上で種々の問題を惹起した。そのような状況への対応として、大学は学生相談にも力を注ぎ、相談センターというセクションを設置するのである。

 本章では、社会経済ならびに教育環境、家庭状況の如上の変化が、学苑や学苑に学ぶ学生達の生活に与えた影響について、具体的に見ていくことにする。

二 学生の大学観の変容

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 昭和三十年代初頭の座談会「学園生活を語る」(『早稲田学報』昭和三十一年四月発行 第六五九号)を見ると、学生達は入学理由を、「早稲田の精神、学の独立ですか、それが魅力でした」、「〇〇先生を知って、ぜひあの先生方から××を勉強したい」と述べており、学問の府としての学苑への熱い想いが窺える。このような学生達の想いは三十年代末においても変らず、「先生と学生の間に何かつながりがあるというような授業」、「先生がよく研究しておられるところ、先生がいま考えておられるようなことを内容にした新しい講義」、「先生と学生が密接になって、そういういろんな勉強の話をしたり、その他の人生におけるいろんな話もできるような雰囲気」(「座談会 学生と生活」『新鐘』昭和三十八年十月発行 第二号 八―九頁)を求めている。人間性の触れ合い、教員の研究課題を通しての触れ合いを望んでいるが、その前提として、大学はあくまでも学問追求の場であるとの認識があった。

 四十三年十一月実施の早稲田大学学生意識実態調査によれば、大学入学の目的は「豊かな教養と人格の陶冶」が五九パーセント、「専門的知識、技術修得」が四八パーセント、「学問研究にたずさわる」が二四パーセントと、大学を学問の場と捉えて入学してきた者の比率が高い。これに対し、「目的は意識しなかった」(一五パーセント)、「みんなが大学へ行くから」(一一パーセント)、「課外活動をする」(九パーセント)と、無目的または勉学以外の目的は低率である(複数回答)。「大学教授に対する要望と期待」では、「講義内容の充実」(五二パーセント)、「教育に情熱を」(三九パーセント)、「学生との個人的接触」(三八パーセント)、「自分の信条、生き方の教示」(三八パーセント)の比率が高く、勉学優先の要求を示すとともに人間的な触れ合いを求めていることが窺える(岡村和夫「現代学生論」『早稲田学報』昭和四十四年一月発行 第七八八号 四六―五一頁)。三十年代末の座談会での学生の発言が数値に表れたと言えよう。

 これが十数年後の昭和五十六年になると、学生達は大学生活の目的について、「学問と言うか勉強したくて大学に入ったわけじゃなくて」、「今、大学に入ってくる全員が、勉強ということだけを目指しているということは、まずないんじゃないかと実感しますね。また、大学に学生が要求しているものも、本当に種々多様なものがありますね。勉強もそのうちの一つですし」、「僕は余り目的とかを持つ必要はないと思っています」(「座談会 特集・学業と学生生活」『新鐘』昭和五十六年十月発行 第三〇号 八―九頁)と語っており、学問以外の側面を重視して大学に入学してきていることが分る。十年前までは会話の前提であった「大学は学問の場である」という認識は、稀薄化している。大学の持つ学問・教育上の絶対的な価値が相対化されているのである。このような意識の変化は、大学へ行くことが当然のことと意識され、大学入学が最終目的とされたことに起因しているのであろう。

三 出身地と居住形態

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 学苑生は創立以来全国各地から集まり、その出身地は一地方に限定されていなかった。いわば全国型大学であって、地域大学ではなかったのである。第二次世界大戦以前の関東地方出身者の比率は二〇―三〇パーセントに過ぎなかったが、戦後間もない二十五年には出身地方別比率は大きく変化し、関東地方出身者は六〇パーセント近くになった。以後、関東地方出身者の比率は戦前の水準にもどらず、五〇パーセント台を占め続けた。関東地方の「地域大学」と化したとも言える。その背景には、経済的な問題があった。すなわち、東京と地方との所得格差、住居費に典型的に見られる東京の生計費高騰である。四十年の県別一人当り平均所得は、全国平均を一〇〇とすると、最高額の東京都は一八三・七、最低額の鹿児島が六二・八であり、二・九倍以上の格差が存在したのである。金のかかる東京の大学へ通わせるよりも、金のかからない地元の大学に入る方がよい、というように考えられていったのである。

 比率の増大した関東地方出身者の県別構成は、東京都が低下して隣接県が上昇する、いわゆる「ドーナツ化」現象を呈していた。隣接県出身者の増加は、必ずしも自宅通学者の増加を意味しない。学生部がまとめた『学生生活調査報告書』によれば、自宅通学者の割合は四十二年度には約六〇パーセントと他の年度の調査と比して最も高いが、四十八年度になると五〇パーセントに落ち、その後は五〇パーセント前後を推移している。下宿は四十二年度には三〇パーセントであったが、四十八年度になると二五パーセントと減少し、代ってアパートやマンションが登場して一六パーセントを占めている。勿論、アパートやマンションに住む学生はそれ以前からいたが、調査項目に登場するようになるくらい、この頃にはアパートやマンション住まいが無視できないほどの比重を持つようになったのである。下宿とは言っても、昔ながらの賄付下宿の比率は低く、四十八年度では僅か四パーセントに過ぎず、年とともに更に低下していく。五十四年度には貸間・アパートが四〇パーセントにも達し、この頃になると、マンションや学生ハイツと呼ばれる、一昔前の学生にしてみれば「高級」な部屋に住む学生も現れ、約二パーセントの割合となっている。居住面積も四十六年度には一人部屋一人当り四・二畳であったのが、四十九年度には四・八畳となり、五十八年度には五・九畳と広くなっている(大学生活協同組合東京事業連合『学生の消費生活に関する実態調査報告書』各年度版による)。要するに、約半数を占める自宅通学者以外の学生の居住形態は、賄付下宿から自炊や外食型の下宿へ、更にアパート、マンションへと移っており、次いでマンションや学生ハイツなどの「高級」住居志向も見られるようになる。空間や時間を他者によって制約されない生活、それを「高級」と言うならば、「高級」志向の傾向が看取できよう。居住面積の拡大も快適空間の確保を希求した結果なのである。このような傾向を背景として、早稲田学生街の大きな特色であった昔ながらの下宿屋は、姿を消していった。

 学苑では、学生の経済的負担を軽減し、共同生活の体験を通じて有能な人間を形成することを目的に、田無と東伏見の二箇所に学生寮を設けている。両学生寮を合せた収容人員は、年により異動はあるが、概ね百十―百三十人である。これについて学苑は、「四万の学生数を誇る早稲田大学にわずか田無学生寮(七四人収容)、東伏見学生寮(五〇人収容)の寮があるだけである」と、学生総数に対する学生寮の収容能力の小ささを認めつつ、「応募者が殺到するため、例年約二〇倍の競争率となっている」(『学園生活』昭和四十二年度版 二九頁)と記しており、人気の程が窺える。他大学の学生寮の例だが、以前は安い寮費のため人気があったものの、生活様式の変化に起因して学生寮の人気は下降したという。学苑の「応募者が殺到」は四十年代初頭の話であるから、如上の生活意識の変化から推して、学苑の場合も時を経ずして学生寮の人気は下降したと思われる。尤も、小規模ゆえに応募者殺到の状況は変らなかったのかもしれない。

四 修学と就職

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 学苑では昭和二十四年に新制大学が発足して以来、学生数が年ごとに増大していき、四十一年には二十五年の約二倍、約四万人に膨れ上がった。しかし、学苑側の受入態勢はこの学生数増大に伴う形では整備されなかったために、鮨詰め授業を余儀なくされるに至ったのである。三十年前後には「立ちん坊授業」に対する不満が学生から学苑当局へ出されている。

高い授業料を払つて受けている我々の毎日の講義はいかなるものであろうか。正に立〔ち〕ん棒授業である。たとえば法学部S先生の刑法は水曜の十二時からだが、前の授業が終つてすぐ、昼食も食べずに飛んで行つても教室は一杯で空いている席など一つもない。やむを得ずほかの教室からベンチをもつて来るのだが、ベンチに腰掛けヒザにノートを置いて筆記する時はこれでも大学かと思いなさけなくなる。しかも語学や一部教養科目を除けばほとんどこれと大同小異という有様である。

(『早稲田大学新聞』昭和三十年一月二十六日号)

 学生を取り巻くこうした物理的環境は、教室の増改築により徐々に改善される傾向にあった。また教員の増加により、専任教員一人当り学生数も、例えば右の投書に指摘された第一・第二法学部の場合、三十年度の百十八人から三十五年度には九十六人、四十年度には九十一人と、漸減していった。尤も、学生定員の拡大と授業料等からの収入増大により教室設備の改善が進みながらも、満席の大教室で拡声装置やOHPを利用する講義も一部引続き行われた。「マス・プロ教育」という新語が新聞紙面等をにぎわすようになるのは、三十年代に入ってからである。しかし、このような学苑の「努力」にも拘らず、四十年代中頃になっても、依然として学生の教室への不満は解消されなかった。

 足りないのは教室だけではない。図書館の閲覧席も同様であった。四十三年十一月十五日付の『早稲田』に載った学生達の声は切実であった。

私は今図書館の中でやっと空席にありついたところなのです。ホッと一息ついて横を見ると何かに取り組んでいる真剣な姿が向こうの壁までずらりと並んでいます。しかし一列にたった十二人です。何列あるか知らないが四万の学生には実際申し訳程度の図書館です。大学自慢の幾万の蔵書を誇ってみても一体その本をどこで読めというのか?何のための蔵書なのか?いつ来てもラッシュで学生達が右往左往。空席が出来ないかと根気よく待つが、やがて扉の外に消えるのが常なのです。私達には計画的な勉強が不可能なのです。

 四十一年七月に実施されたアンケートを見ると、図書館に対する要望として、閲覧室の座席増設、座席の間隔の拡張、閲覧室の照明改善、冷房設備の設置、貸出業務の迅速化が強く求められている(「図書館の閲覧席――アンケートから――」同誌 昭和四十二年十月十一日号)。蔵書自体よりも閲覧室に関する要望が中心である。学苑の図書館は大正十四年開館当時は我が国を代表する立派な図書館ではあったが、もはや、利用者すなわち学生の急増に対して図書館機能が対応しきれなくなっていた。教職員、なかんずく図書館関係の教職員は、学生の右の如き種々の不満を抜本的に解決するには新図書館を建設するしかないと考えるようになっていた。

 さて、その大学図書館の利用状況を示したのが次頁の第五十表である。三十年度には教職口員を含めて入館者数は七十四万七千五百余、閲覧者数は十六万七千七百弱、一日平均入館者三千五十一人、閲覧者六百八十四人であった。蔵書利用率は意外に低くて二二パーセントであった。残りの七八パーセントは、持ち込みの図書による学習、休憩室の利用、新聞の閲覧等で図書館を利用したものと考えられる。一日の平均入館者は増減を繰り返しながら減少していき、五十八年度には二千九十九人となっている。閲覧者は五十年度まで減少したのち増加に転じ、五十八年度には三百二十一人に達しているが、三十年度の半分に過ぎない。入館者のうち蔵書を利用する者の割合は、前述したように三十年度は二二パーセントであったが、以後五十三年度まで減少して一〇パーセントに低下した。入館者の十人に一人の割でしか図書館の蔵書を利用していなかったわけである。その後は増加する傾向にあり、五十八年度には一五パーセントにまで回復した。しかし、全体として蔵書の利用率は低い。大学図書館の蔵書は大学の研究活動を支えると同時に学生の勉学に資されなければならない。こう考えると、低い利用率はきわめて問題と言わざるを得ない。この理由が、蔵書が閉架式で、図書の出納が雑誌と同じカウンターで行われることも手伝って、借り出すまでに時間が長くかかることや、閉架式であるため前以て書名が分っていないと利用できないこと、あるいは、図書館閲覧室を学習室として利用する学生が少からずいたためという事由であるならば、新図書館の開館によって問題の大部分は解消する筈である。しかし、前述した大学観の変化から考えて、この閲覧率の低下は本質的には学生の図書館離れ、勉強離れに起因しているのであり、学苑にとってより深刻な事態を告げるものとなっていた。

第五十表 図書館の1日当りの利用状況(昭和30―58年度)

(『定時商議員会学事報告書』各年度版より作成)

 では、大学に入学したものの勉強を忌避する学生は、卒業できたのであろうか。第五十一表は、入学して四年後に卒業した者の比率と五年以上かかって卒業した者の比率とを示したものである。三十八年度の入学者は九千百二十九人であったが、四十二年三月に卒業したのは六千二百三十五人、すなわち入学時の六八・三パーセント、三人に二人が四年で卒業している。留年をしても卒業した者も含めると、七七パーセントとなる。四年卒業率も、留年経験者をも含めた卒業率も、上昇する傾向にあり、五十六年度入学生では四年卒業率は七五パーセント、全体の卒業率は九二パーセントにも達している。勉強を忌避する傾向が強まっても、卒業する者の比率は高くなっていっている。四年卒業率の上昇は、学苑・教員側に、多数の学生を留年させると、ただでさえ受講生で飽和状態にある教室を過密状態にし、教育環境を一層悪化させることになるので、成績に少々問題はあっても目をつぶって卒業させる、いわゆる「ところてん」式卒業の発想が作用したのであろう。マス・プロ教育の弊害が現れているのである。学生にしても、就職するためには早稲田大学卒業のレッテルが必要であり、そつなく講義を受けて卒業していくのが賢明というところであろうか。

第五十一表 学部学生の卒業率(昭和38―56年度)

(昭和44年度までは『定時商議員会学事報告書』各年度版より,46年度以降は『基本諸統計』各年度版より作成)

 その就職状況の推移は次頁の第五十二表の通りである。「安保闘争」が頂点に達した三十五年度の卒業生の就職状況を見ると、さまざまな分野へ大量に進出しただけでなく、有力企業で早稲田大学の卒業生を採用しないところは皆無となっている。それまでは政界や報道界が中心で、産業界と言っても、いわゆる大企業・優良企業の門戸は、学苑卒業生には狭かったのであるから、大きな変化であった。学苑卒業生の就職分野は、昭和三十年代に拡大しただけでなく、質的にも大きな変化を遂げたのである。これは、高度経済成長が学生に与えた最大の影響の一つであった。因にこの年、学苑生を採用した企業を採用者数の多い順に十八社列挙すると、山一証券七十三人、NHK六十四人、日本IBM三十七人、野村証券三十二人、大和証券二十六人、丸紅飯田二十五人、電通二十四人、日本経済新聞二十二人、伊藤忠二十人、日立製作所十九人、日興証券十九人、NCR十八人、木下産商十八人、第一生命十七人、朝日新聞十五人、大商証券十五人、三井物産十五人、日産自動車十五人であった。三十六年三月末日の就職決定率は、経済成長率九・五パーセントと言われた好況を反映して九七パーセントに達し、実質的には一〇〇パーセントと見てよい。この年の特徴について、就職部長吉井篤雄は次のように語っている。

卒業生の報道・出版関係への大量進出は依然として続いているが、産業界への進出も年々顕著である。早稲田大学や慶応義塾大学などいくつかの特定の大学の卒業予定者に対して、面接のみで採用する一流企業が現れてきた。これは、ここ数年来、学苑卒業生に対する評価の急速な高まりを意味している。その反面、考えさせられる現象も出てきた。求人会社三千四百五十七社に対して千社以上の会社への就職希望者が皆無であったこと、また、希望する会社が都市に集中しており、しかも一流企業に限られる傾向が一層目立ってきたことである。中小企業や地方の会社で営々と築いてきた先輩校友との交流の断絶が懸念される。

(『早稲田学報』昭和三十六年四月発行 第七一〇号 三三頁)

なお、この年の文科系学部卒業生の平均初任給は一万四千六百四円であった。

第五十二表 業種別就職決定者数とその比率(昭和35―55年度)

(『定時商議員会学事報告書』各年度版より作成)

 その後二十年間の就職状況の推移を見ると、就職決定率は日本経済の好不況を反映して変動している。とりわけ、高度経済成長頓挫の影響が色濃く現れている。業種別で見ると、どの業種でも増減を繰り返すが、商業の比率が減少し、代って教員や公務員の比率が増加している。一般に、これらは不況に強い安定した職種として不況期には人気が高くなるが、学苑の就職状況の推移にもそれが明確に現れている。

五 学生の健康

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 昭和三十九年四月一日、学苑に学生健康保険組合が誕生した。この組合は学生が相互扶助の精神に基づいて據金し、学生自身の健康管理と傷病学生の医療費援助とを目的とするものである。

 大学生の健康保険組合が初めて設立されたのは、昭和三十年、同志社大学においてである(『同志社百年史』通史編二一三三七ー一三三八頁)。その後慶応義塾その他の大学にも波及し、学苑でも三十三年頃学生健康保険組合設立の動きが見られたが、すぐに立消えになった。三十五年五月に第二商学部自治会が再びこれを取り上げ、学生健康保険組合の研究・調査と設立運動を開始したが、「安保闘争」のため中断を余儀なくされた。翌三十六年五月、第二商学部自治会は運動を再開し、情報宣伝活動を始め、ビラを配布して学生に必要性を訴えた。また早稲田祭では学生健保についてアンケート調査を行った。更に三十七年には学生健康保険組合の三十八年発足を期して積極的に活動を展開、十月には、学生健保設立に乗り気でなかった他学部自治会を説得し、全学的規模の学生健康保険組合設立準備委員会を発足させた。十一月にはアンケート調査を行い、署名運動を開始した。また早稲田祭では「早大生の健康はいかにして守られているか」をテーマに展示を行った。そして翌三十八年五月、一万四千の設立希望の署名を得て大学に提出した。一方、大学側でも学生の動きに並行して学生会館に学生健保の担当者を置き、診療所長原素行らの協力を得て、大学独自の立場から学生健保の必要性や他大学の学生健保の実情について調査・研究を行った。九月には学生側の準備委員会と大学学生部とで頻繁に会合を開いて意見調整を行い、学生健康保険組合の規約原案を作成した。十二月には学部長会と理事会で承認され、翌三十九年四月一日に発足することになった。第二商学部自治会が設立運動に着手してから四年にして結実したのである。

 早稲田大学学生健康保険組合の設立において特に注目すべきことは、次の二点である。第一は、学生健康保険組合設立運動が、各学部自治会の学生運動激化の中で、第二商学部自治会の手掛けた特異な運動であった点である。この頃自治会が取り組んでいた主要なテーマは国の政治外交問題であり、また学内の諸問題も常にそれとの関連において取り上げられていたため、学生が学苑生活を送る上で大切な学生自身の福利厚生等の問題は等閑に付されていた。そうした状況の中で、どの政治セクトにも属さない第二商学部自治会は、「国の政治外交問題も重要だが、それよりも身近な問題を」と、この問題を取り上げた。第二に、この運動が当時の社会情勢を反映していた点である。戦後我が国においては、人権思想の高まりとともに相互扶助の精神に基づいて、社会保障制度が目覚しく整備された。中でも各企業における健康保険や一般市民を対象とする国民健康保険が普及し、国民は「医療は無料だ」との観念を持つほどまでに発展した。学生健康保険はそのような社会情勢の中で、企業の健康保険や国民健康保険では償い切れない部分を補償しようとして学苑に生れた一種の社会保険であった。

 発足したばかりの学生健康保険組合は、大事を取って漸進的に一歩一歩整備・拡充していく方策を採った。発足第一年度の方針を昭和三十九年度の『学生健康保険組合業務報告書』より摘記すると、組合費は一人年間七百円(全員加入)で正規在学年数分を一括前納し、給付率は医療費総額の五〇パーセント、発足時の治療可能な契約病院数は十三(初年度末には四百六十九にまで拡大)であった。ただし歯科は対象外とし、最高給付額は一人年間四万円で、初診料と入院の際の食費・寝具料・看護料には給付しないという制限を設けた。実際の運営に当る理事には大学側と学生側とから各十人を選出し、初代理事長には学生部長神沢惣一郎が就任したが、出発に際して大きな問題となったのは事務局の所在である。学生健康保険組合の事務所は、本来、被保険者である学生の負担で設置・運営されるべきものであるが、学生健康保険組合は学生の健康や福祉に関わることであり、また人件費や諸雑費が重なることになれば組合の財政を圧迫するので、大学が肩代りすることになった。そこで学生生活課の中に学生健康保険担当者を置き、これに当らせることで解決したのである。

 病は肉体的なものだけではない。修学上のさまざまな問題、例えばどのように科目を履修したらよいのか、入学はしたものの希望が変り他学部に転部したいといった問題や、健康以外にも、経済的なこと、更には異性問題など、学生はさまざまな悩みを抱えている。まさに「悩める世代」である。このような精神衛生上の問題に対し、学苑は四十三年四月に学生相談センターを設けて対応することにした。

 学生の精神衛生上の問題への対応については、既に三十五年、早稲田大学診療所が所長原素行の考えに基づき、予防医学の観点からこの種の諸問題を取り扱う心理相談室を開設していた。しかし、相談業務に限界があり、より本格的に学生の相談に応じられる独立した機関の設置の必要性が痛感された。一方、学生健康保険組合は、設立当初から相談センターの重要性を認識し、「学生相談センター設立準備委員会」を組織、その設置に向けカウンセリングの研究、他大学の相談所の調査、相談センターのあり方の検討、等々の取組みを行っていた。四十二年、準備委員会の呼びかけにより学生相談センター設立準備懇談会が各学部学生担当教務主任、学生部、診療所役職者、学生健保理事長・学生委員らの出席の下に開かれ、協議の結果、学生健康保険組合の意見である大学の一機関として学生相談業務を行うべきであることが承認された。四月の第二回懇談会で「学生相談センター設立趣意書」が学生健康保険組合から学苑代表の常任理事高木純一に渡された。学生生活上の不安や悩み、ノイローゼ、精神障害などの相談に対処するための学生相談センター設置の必要性を説くとともに、各箇所で個別に対処している相談現場の核となるセンター構想を掲げ、その早期実現を要望するものであった。十一月の高木常任理事と学生健康保険組合との協議を経て、学苑はこの月に診療所長を退任した原素行を学生部嘱託とし、学生相談センター設立についての調査を依頼した。原は診療所長の経験を生かして構想を練り上げ、四十三年二月に設立要望書を総長に提出した。二月八日の理事会において四月からの開設に向けて設立準備事務所の開設が承認され、かくて四月一日、学生相談センターは二七号館(診療所。その後取り壊されて今はない)三階に開設された。

 学苑の取組みは他大学に比して遅い部類に入るが、後発であった分、多くの成功例や失敗例を参考にして、相談の項目を一切制限しない「よろず相談」という独特の形式を採用した。「よろず相談」としたその基本的な考え方は、学生相談を大学の目的の一つである人格形成に大きな役割を果す教育の一環として捉え、個人相談を総合的に受け入れることから出発すべきというものであった(原素行「本大学における『学生相談センター』の企画について」『学生相談報告』昭和四士二年度版)。そのため、相談方法も、「来談者中心主義をとり、問題の解決はあくまでもその学生自身の自発性にまち、相談員はその解決の糸口を見出すお手伝いの立場」(学生相談センター所長川合幸晴「学生相談センターの一年」同誌 一―二頁)としている。

 如上のような基本姿勢のため、学生相談センターを訪れた学生達の悩みは多岐に亘る。『学生相談報告』(昭和四十九年度から『学生相談センター報告書」と改題)によれば、四十三年には修学関係の悩みが三八パーセントと最も多く、次いで健康に関してが二六パーセント、以下心理に関してが一八パーセント、進路一一パーセント、経済問題五パーセントであった。健康に関する悩みのうち、精神に関する悩みが全体の一六パーセントと多く、他の健康に関する悩みの大部分も本質的には精神に関するものであった。

 修学関係で多いのは転部・転科、または他大学への転学の相談である。この種の相談は「情報次元に属」し「相談とは類を異にする」が、「『よろず相談』の効果」(原素行「『よろず相談』方式を側面から考察して」同誌 昭和四十四年版 四頁)と考えられている。健康のうち身体一般に関するものは診療所で扱われるので、精神に関する相談の比率が高いのは当然である。学生相談センターが面談した精神障害者は、ごく軽度のも含めて、四十三年度百四十四人、四十四年度百八十六人と、年々百五十人内外の多きに上っている。その内容は、精神分裂症、躁鬱病、癲癇、神経症、性格異常などである。これら精神障害者の三六パーセントが、雑多な相談のために学生相談センターを訪れた学生の中から発見されている。「よろず相談」の長所が発揮されたと言うべきである。

 修学関係に関する悩みの比率は、既述したように四十三年度には三八パーセントであったが、翌年度には五〇パーセント、四十七年度には六〇パーセントに達し、以後六〇パーセント前後を占めたが、五十五年度以降減少傾向にある。それに比して健康に関する悩みは四十五年度以降減少してきたが、五十五年度から上昇に転じている。心理相談とは対人、異性、性関係、家庭、思想、信仰、性格に関する相談のことであるが、四十三年度こそ多かったものの、四十七―五十一年度は五パーセント前後に低下した。五十四年度から再び一〇パーセント台に復している。進路相談は将来の方針・就職関係で、四十三年度以来一〇パーセント台であったのが五十五年度から一桁に減少している。経済相談は生活費、アルバイト、奨学金、住居などで、四十三年度以降五パーセント以下の比率である。総じて、五十五年度を境に、修学、進路などの相談は減少に転じ、代って精神衛生上の相談や心理的な相談が増加した。また、自己中心的なものの見方や幼稚な考え方に基づく相談が増加し、更に、大学に学ぶことの目的を見失った、あるいは発見できない学生の相談が目立つようになってくる。五十五年前後は、三十年代後半生れの世代が大学に入学してくる時期である。大学の大衆化の結果、受験戦争が激化し、小・中学校から受験体制に否応なく組み込まれざるを得なかった世代であり、その歪が相談内容の変化に現れているのであろう。

六 収入と支出

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 昭和三十一年の『経済白書』が「もはや『戦後』ではない」と高らかに宣言したのに続き、三十五年に岸信介内閣の後を襲った池田勇人内閣は、所得倍増計画を打ち上げて積極的に経済成長政策を推進した。高度経済成長は国民の所得上昇をもたらしたが、経済成長と所得上昇との間にはタイム・ラグが存在したばかりか、大企業と中小企業との間の賃金格差は依然残り、新たに地方居住者と大都市居住者との間の所得格差を生み、更に、昻進するインフレならびに公害という負の影響をも及ぼしたのである。こうした中で消費者物価が年々上昇し、学生の生活費もそれに伴って上昇の一途をたどり、授業料、食費、書籍代、娯楽費、下宿代等が年ごとに高くなっていった。

 学苑学生の授業料を除く学資、つまり学生生活費の推移をまとめたのが第五十三表である。自宅通学の学生(自宅生)が一ヵ月に支出した生活費は、三十二年度には六千三百円余であったのが五十八年度には五万四千三百円余と八倍に、下宿・アパートなど自宅以外に居住する学生(自宅外生)の生活費は同じく一万二千円弱から十一万三千円余と十倍にというように、物価上昇を背景として年を逐うごとに増加している。両者の生活費は部屋代の有無により大きく異り、その差はほぼ部屋代に匹敵する。自宅外生の生活費はその年度の大卒の初任給に並ぶほどである。

 その高額な生活費をどのようにして得たのかを見たのが第五十四表である。自宅外生の場合、家庭からの仕送りの比率が圧倒的に高くて八〇パーセントに近い割合を示しており、家庭からの仕送りによって生活費が賄われていることが分る。アルバイト(定職を含む)収入の比率は一〇パーセントから一七パーセントの間を緩やかに上下している。

第五十三表 早稲田大学学生の生活費月額(昭和32―58年度)

(早稲田大学『昭和32年度学生生活実態調査報告書』,大学生活協同組合東京事業連合『学生の消費生活に関する実態調査報告書』,『定時商議員会学事報告書』昭和40―58年度版より作成)

第五十四表 早稲田大学学生の収入構成比(昭和32―58年度)

(大学生活協同組合東京事業連合『学生の消費生活に関する実態調査報告書』各年度版より作成)

第五十五表 早稲田大学学生の支出構成比(昭和32―58年度)

(早稲田大学『昭和32年度学生生活実態調査報告書』,大学生活協同組合東京事業連合『学生の消費生活に関する実態調査報告書』昭和40―58年度版より作成)

当然のことであるが、家庭からの収入の比率が下がるとアルバイト収入の比率が上がるという関係にあり、アルバイト収入が仕送り額を補完している。自宅生の場合、家庭からの仕送りとは小遣いのことであり、その比率は三十二―四十五年度の五〇―六〇パーセントから、五十八年度には四〇パーセントを切るにまで低下した。逆に、アルバイト収入の比率は三十二年度約一八パーセント、四十五年度には二六パーセントであったが、五十年度には四六パーセント台に入り、五十八年には五四パーセントと、親から得る小遣いと逆転している。家族から毎月手渡される金だけでは十分ではないということであろう。

 他方、支出については、第五十五表に見られるように、自宅外生の場合、食費の比率が常に高く四〇パーセント前後を推移するが、五十八年度には三〇パーセントとなっている。住居費は食費とともに高率で二五パーセント前後であるが、五十八年度には二八パーセントと漸次増加傾向を示している。地価高騰を背景とする部屋代の値上りによるものである。減少したのは書籍代や文具代などの勉学費で、一〇パーセント前後だったのが、五十八年度には七パーセントとなっている。金額は増加しているのだが、支出規模の拡大により比率は相対的に下がる結果となっている。

 自宅生の場合、住居費は無に等しく、大きな割合を占めたのは食費と教養娯楽費である。外食費の比率は四十年代後半には三〇パーセント近かったが、以後減少して五十八年度には二三パーセントとなっている。教養娯楽費も食費とほぼ同じ動きを示し、三〇パーセントから二六パーセントに減少した。三十二年度に二七パーセントを占めた勉学費は漸次減少し、五十八年度には一二パーセントまで落ち込んでいる(大学生活協同組合東京事業連合『学生の消費生活に関する実態調査報告書』各年度版による)。自宅外生も、自宅生も、勉学費の比率は低下したが、教養娯楽費の比率が大きく変動することはなかった。勉学に打ち込むよりも、学生生活をエンジョイする姿が浮かんでこよう。

 学生生活と切っても切れないものがアルバイトである。アルバイトの持つ意味は昭和三十年頃と五十年代とでは大きく変った。三十四年十二月、学苑学生部が実施した調査では、アルバイトをしなくてすむ学生は第一学部で七四パーセント、第二学部で六一パーセントとなっている。後者が前者よりも少いのは、定職または長期アルバイトに既に就いている学生が二五パーセントを占めたからである。他方、実際にアルバイトに励んでいる学生は、第一学部では四〇パーセント、第二学部では三〇パーセントであった。このことから、昼夜両学部を問わず一五パーセントほどの学生が、それほど必要でないにも拘らずアルバイトに出精していたことになろう(『学生生活実態調査報告書』昭和三十五年度版 一四頁)。

 学業継続のためにアルバイトを強いられる学生の比率は年とともに減少していく。学苑の調査によれば、昭和四十二年度には一一パーセント、四十六年度には一四パーセントに達したが、以後減少して五十年度に七パーセントと最低となり、その後七―九パーセントの間を増減している。「アルバイトを必要としない」層も五十二年度から減少し、その低下度合いが次第に加速している。この層の減少に反比例して増加したのは、「よりよい生活のため」アルバイトをすると答えた層である。四十二年度三九パーセント、四十四年度三八パーセントであったが、以後増加して五十八年度には六七パーセントにも達している(『学生生活調査報告書』各年度版による)。アルバイトをしている学生の三人に二人がよりよい生活を求めてアルバイトをしていることになる。アルバイト収入は生活費補完の意味合いを減少させ、余暇を豊かに過ごすため、あるいは後述するように、レコード・プレーヤーやFMラジオなどの購入費に充てられるようになっていった。これは、見方を変えれば、授業料や居住費、更には食費までも親が負担するのが常態となったということである。高度経済成長を背景として親の所得が上昇したからと言ってしまえばそれまでだが、本質的には、大学生活は自立、自律の過程であり、経済的側面においてもそれは図られなければならないとの観念が親子ともに乏しいためであろう。

 ところで、アルバイトの種類を求人職種によって見れば、昭和二十年代末には「雑務」が最も多く、次いで「軽労働」(調査、配達、ビラ撒き、店員など)、「事務」(筆耕、経理、編集、トレースなど)、「重労働」(重量物運搬、倉庫整理、選挙手伝い、引越手伝いなど)、「外交販売」(万年筆、衣類、機械部品など)の順であった(『早稲田大学新聞』昭和二十九年六月九日号)。家庭教師の求人数は多くないが、現実には、本人の交際範囲内でその口を発見した者が少くなかったであろう。しかし高度成長期を迎えると、企業は人手を求め、また大学や高等学校の受験者層の拡大により家庭教師も多数需要されたので、アルバイトを捜すのは以前ほど困難でなくなっただけでなく、学生自身に職種を選択する余地が生じた。四十二年頃、「学生たちがデパートの売場に進出し、寒風をついて御歳暮配達の自転車を駆るのは、ここ七、八年の歳末風景である」と言われ、「一番ポピュラーで学生らしい仕事は家庭教師で、ワセダマンの相場は週三回で六千―八千円。職種も各種調査、製本、ビル清掃、運転助手、封筒宛名書き、電話番、引越手伝いなど様々」であった(「早大生の生活」『早稲田』昭和四十二年一月一日父母号)。総じて家庭教師および軽労働が多く、両者で全体の約六〇パーセントにも達している。家庭教師と軽労働の比率は概ね二対三で、この傾向は四十二年度から五十八年度まで変らない。四十二年度に一四パーセントを占めた重労働の割合は五十六年度には七パーセントまで低下しており、重労働を忌避する傾向が窺える(『学生生活調査報告書』各年度版による)。

七 奨学金

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 学生生活を経済的側面から支援する奨学金は、学苑においては、学苑独自の奨学金、日本育英会奨学金、公共・民間団体の奨学金がある。学苑独自の奨学金には大隈記念奨学基金、早稲田大学一般奨学金、早稲田大学貸与奨学金、寄附金を原資として各種名称を冠した奨学金がある。大隈記念奨学基金と早稲田大学一般奨学金は学部および大学院学生を対象に給与され、返還義務のない奨学金であるが、後者は四十一年度から五十年度までの十年間に亘って支給された。四十七年度に交付が開始された早稲田大学貸与奨学金も学部および大学院学生を対象とするが、その名の通り給与ではなく貸与である。篤志家(団体を含む)の寄附金を基金とする奨学金については、四十一年までのものについては既述したので、それ以降のものを挙げると、木村幸一郎先生古稀記念の会からの寄附金を基金として、建築学専攻の学生を対象として四十二年度に発足した建築学奨学金、名誉教授故沖巌先生記念事業の会の寄附金を基金として四十三年度から機械工学専攻の学生に給与されている沖奨学金、名誉教授伊原貞敏先生記念事業の会の寄附金に基づき同じく機械工学専攻の学生を対象に同年度に設定された伊原奨学金、故海老崎ツルの寄附金を基金として五十三年度より給与が開始した海老崎奨学金がある。これらはいずれも一年度限り(更新可能)の採用である。

 さて、諸物価が高騰する中で奨学基金整備は社会的要請となったが、四十年前後からの学苑における奨学生数の推移は以下の通りである。三十九年度には大隈記念奨学基金三百七十二人、日本育英会奨学金五千九十六人、公共・民間団体奨学金四百八十五人、篤志家の名を冠した奨学基金九人の計五千九百六十二人であった。四十一度には早稲田大学一般奨学金や篤志家奨学基金の整備により奨学金受給者は六千七百三十一人に増えている。その後も増加し続け、四十六年度には大隈記念奨学基金三百九十三人、早稲田大学一般奨学金千二百十人、日本育英会奨学金六千四十四人、公共・民間団体奨学金五百六十六人、篤志家の名を冠した奨学基金四十一人、計八千二百五十四人と最高を記録したが、翌年度に早稲田大学貸与奨学金が創設されたものの減少に転じ、早稲田大学一般奨学金の廃止や日本育英会の奨学生数割当の減少や公共・民間団体奨学金受給者の減少と相俟って五十一年度には六千八百八十七人にまで減少した。その後再び増加に転じ、五十七年度には大隈記念奨学基金四百二十六人、早稲田大学貸与奨学金千六百六十二人、日本育英会奨学金五千四百五十六人、公共・民間団体奨学金五百三十一人、篤志家奨学基金六十六人の計八千百四十一人となっている(『学生の手帖』各年度版による)。

 在籍者に占める受給者の割合(奨学金受給率)を学部と大学院とに分けて見よう。学部学生では、三十九年度には一六パーセント、四十六年度二〇パーセント、五十一年度一五パーセント、五十七年度一九パーセントを占め、大学院学生では三四パーセント、六三パーセント、五七パーセント、六〇パーセントであった(早稲田大学学生部奨学課『奨学生状況報告書』各年度版による)。学部学生が一五―二〇パーセントの間で変動したのに対し、大学院学生は三〇パーセント台から六〇パーセントヘと倍増しており、際立った違いを示している。

 この間に一人当り受給額は概ね増加した。授業料相当額を給与する大隈記念奨学金は、例えば文科系学部では四十四年度八万円、四十七年度十二万円、五十二年度二十万円、五十七年度三十四万円と、授業料の値上げに連動して増額された。早稲田大学貸与奨学金は四十七年度には授業料の二分の一相当額が貸与されたが、五十三年度から一年生は授業料相当額、二年生は授業料の二分の一(五十五年度から二期授業料相当額)と定められており、これも増額された。日本育英会の一般貸与奨学金は、四十七年度には一年生は年額九万六千円であったのが、五十一年度には十四万四千円、五十二年度十六万八千円、五十三年度二十万四千円、五十四年度三十二万四千円と増加している。これに対し早稲田大学一般奨学金は、四十一年度から五十年度まで年額二万円と変化せず、「給付金額が発足当初と変わらないため」(同書 昭和四十五年度版 一頁)魅力が薄かったためか、四十四―四十五年度には受給希望者数は採用枠の半分にも達しなかった。このように奨学金総額は増加したものの、日本育英会奨学金の場合のように、一人当り支給額が学苑の文科系学部の授業料にも満たないものが圧倒的に多い。

 学生総数のうち奨学金を必要とする学生は、四十二年度以降五十六年度まで四〇パーセント前後と一定している。このうち実際に受給したのは二〇パーセント弱に過ぎず、二〇パーセント強の学生がその恩恵に浴していない。アルバイトの必要度から奨学金受給の有無を見ると、学業継続が困難なためアルバイトをしている学生には当然奨学金の必要度が高く、四十二年度では八五パーセントに上っている。その後下降して五十二年度には六八パーセントまで下がるものの、再び上昇に転じ、五十六年度には八〇パーセント台に復している。必要としている者のうち実際に受給したのは約半数に過ぎず、五十六年度に至り漸く六〇パーセント台となっている。生活が苦しいためにアルバイトをしている学生について奨学金の必要度を見ると、四十二年度には六三パーセントを占めたが、次第に低下して五十六年度には四四パーセントにまで下降した。このうち受給生の割合は四〇パーセント前後に過ぎない(『学生生活調査報告書』各年度版による)。増額されるなどして以前に比べ整備されてきているけれども、なお奨学金を必要とする学生が多く存在し、より一層の充実が待たれる所以である。

八 学生生活協同組合

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 学苑の学生生活を支える組織の一つに、早稲田大学生活協同組合がある。学生の消費組合運動は、学苑においては大正期から昭和十年代初頭にかけて見られたが(第三巻三七〇頁参照)、それが復活したのは戦後の混乱期である。昭和二十年十二月十日に開催された戦後初の学生大会において共済会設立が決定され、翌二十一年五月早稲田大学学生共済会が発足し、文学部校舎(現八号館)地階で事業を開始した(第四巻四五〇頁参照)。大学周辺は空襲で焼かれ、正門前は焼け野原であった。ひどい食糧難の時代で、物資が極度に不足していた。しかし委員達は自ら進んで近県の農家へ買い出しに行き、野菜や芋をトラックで運び、商学部校舎東側の入口の脇に台を並べて売り出した。これには延々長蛇の列ができ、学生のみならず教職員もこの列に加わるありさまであった。こうした共済会の活動に対し大学当局は、その頃としては大金であった三十万円の資金を援助して協力を惜しまず、暫くの間は大学からのこの借入金が共済会の運営を支えていた。

 共済会の活動は戦後の乏しい学生生活に潤いを与えたが、二十四年以降統制経済の枠が大幅に取り除かれて物資が出回り始めると、「物を置けば売れる」という状況から「選択して物を買う」という状況に変ってきた。そのため資金の乏しい共済会は忽ち経営難に陥った。そこで、これまで任意団体であった共済会を再建・強化するために、昭和二十三年制定の「消費生活協同組合法」に基づく組合へ改組する必要に迫られた。活発な情宣活動を展開し、二十六年十月十六日、早稲田大学消費生活協同組合が誕生したのである。この結果、共済会時代に大学からの借入金と自治会等の據金によって運営されていた組合の基礎は、組合員自身の出資金へ移って一挙に拡大・強化された。初代理事長には法学部教授江家義男が選ばれ、大学からも学生部長滝口宏が理事として加わった。当初の組合員は学部学生総数の一四パーセントに相当する約三千五百人、出資金は一口百円であった。事業は購買、書籍、文化、勤労、および委託部門に分れ、初年度の供給高は千二百八十万円であった(『早大生協三十年のあゆみ――摸索から発展へ――』七六頁)。この間、二十二年三月に関東地方協同組合連合会が、同年五月に全国学校協同組合連合会が発足し、学苑の共済会もこれらに加盟した。このような横の連絡組織は当初は必ずしも活動的でなかったが、二十八年三月以後活発となり、三十三年三月全国学校協同組合連合会は法人格を取得して全国大学学生協同組合連合会と改称した。この年六月学苑の協同組合は、二十六年発足の東京都生活協同組合連合会および日本生活協同組合にも加入して、生協運動強化の一翼を担った。

 三十年代に生協の直面した大きな問題は、学苑周辺の書店とのトラブルである。この問題は、私企業と、一層廉価に商品を提供しようとする生協との間では、起るべくして起った摩擦であった。教材の多くは周辺の書店から発行されていたが、少量出版のためコストが高い。そこで生協では学生の便宜を図って現金割引をして売ると、書店から苦情が出て出荷を停止される。教材以外の書籍についても、生協が値引きすれば、当然周辺の書店では書籍が売れなくなる。書店側はその対抗措置として取次店に書籍の出荷停止を要請するので、生協は書籍の補給ができなくなる。生協はこの状態を放置しておくわけにいかず、取次店や公正取引委員会に抗議したが、当時の公正取引委員会は法的拘東力を持たない監督機関に過ぎず、また取次店もこの問題の処理に消極的であったので、容易に事態打開は見られなかった。それどころか三十一年十二月書籍業界から再販契約を要求されるに至り、この年度は大幅な欠損金を出し、翌三十二年六月、非組合員への書籍販売禁止、定価販売、利潤の組合員への別途還元という、生協にとっては厳しい三原則を呑まざるを得なくなった。他方、三十一年四月の税制改正による「法人格なき社団に対する課税」が現実問題となり、生協はその対象となった。再販契約適用除外と課税負担軽減が生協の生き残る途だと考えた生協理事会は法人化への準備に着手し、三十四年六月十九日開催の総会は法人化を決議、名称も早稲田大学生活協同組合と変更し、新理事長に法学部教授野村平爾が、初代専従専務理事に森定(昭二九・二商)が就任した。法人化初年度の組合員は二万五千人で八〇パーセントの加入率、出資金は一口三百円、供給高は一億三千六百万円に上った。

 学苑は昭和三十七年十月の創立八十周年記念式典を前に、三十五年十二月、新大久保の地に理工学部新校舎の建設、戸山町の旧高等学院跡地に文学部校舎の建設、法商研究室棟の新築、第二学生会館の新築等、大規模な記念事業計画を発表した。三十七年竣工の文学部校舎、三十九年第一期工事完了後の理工学部校舎にそれぞれ店舗を開設した生協の規模は飛躍的に拡大した。更に、本部キャンパスにおいても、理工学部が新大久保校地への移転を完了した四十三年には、これまで営業を続けてきた狭隘な旧文学部校舎(現八号館)地階から旧理工学部研究室校舎(現一三号館)一・二階へ移ることになった。この移転は生協にとり画期的な意味を持っていた。それは店舗面積が増加したのみでなく、地階から地上へ進出したのであるから、従来のじめじめした暗い生協から、広々として明るい生協への脱皮をも意味したのであり、生協はこれを機会に更に学生や教職員に親しまれることになった。五十五年になると、一三号館周辺の混雑解消のために、新たに、一六号館西側に鉄筋コンクリート造、地下二階・地上三階の一七号館が建てられることが決定した。そして、五十六年十月に竣工したこの建物の地下一階、地上一・二階の一部が生協施設となった。敷地面積はそれまでの五割増となり、理工学部の実験室を改造した店舗と違い、当初から生協施設として設計され、利用し易い、働き易い店舗となった。因に生協施設の面積の推移をたどると、二十六年一五二平方メートル、三十四年二五八平方メートル、三十七年六三五平方メートル、三十九年二〇〇〇平方メートル、四十三年二六八五平方メートル、五十七年四四九四平方メートルであり、五十七年度の供給高は五十三億五千八百万円に達した。なお、三十七年八月、東大、法政、慶応義塾、学苑の四大学生協は東京同盟体を結成、共同仕入による仕入価削減を進めた。四十五年一月、東京同盟体は法人となり、理科大が加わって、生活協同組合連合会大学生活協同組合東京事業連合と改称した。こうして生協は、ほぼ二年に一年の割合で欠損金を出しながらも、生協役員の熱意と学苑当局の協力により組合員の生活に便宜を提供し続けてきたのである。

九 持ち物と娯楽

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 学生が所有する耐久消費財の変化を、学生の消費活動に関する早稲田大学生活協同組合の調査によって見ると、昭和三十九年には自宅生でレコード・プレイヤー、カメラ、背広を持っている学生の比率は六五パーセントと高率を示し、これにテープ・レコーダー、石油ストーブ所有率が四一、四二パーセント、FMラジオ所有率が三四パーセントと続く。自宅外生では背広が約六一パーセントと高い外は、カメラ約四三パーセント、レコード・プレーヤー三八パーセント、FMラジオ三三パーセントとなっている(全国大学生活協同組合連合会東京支所『第二回学生の消費生活に関する実態調査報告』第二分冊)。レコード・プレーヤーとカメラの所有率が自宅生の方が高率なのは、自己負担の食費や住居費が少い分だけ耐久消費財を多く持つことができるという経済的な理由によるものであろう。

 学生は一年間にどのくらい旅行するのだろうか。四十五年度の調査では四月から九月までの六ヵ月間に七六パーセントの学生が一泊以上の旅行をしていた。四十六年度には八〇パーセント、四十七年度八九パーセントに達し、殆どの学生が一泊以上の旅行をしている。長期の休み期間にゼミや部(運動部、サークル)や同好会の合宿が行われたためであろう。旅行に出かけた学生のうち、四十五年度では約半数が一回、四分の一が二回、残りの四分の一が三回以上の頻度であったが、翌四十六年度には一回、二回、三回以上とも同率となり、四十八年度には約半数が三回以上旅行している(大学生活協同組合東京事業連合『学生の消費生活に関する実態調査報告書』各年度版による)。旅行形態も、家族で行くよりも友人同士で行く形が圧倒的に多い。四十六年度の調査では七六パーセントが友人との旅行であった。海外旅行はまだ一般化しておらず、四十五年度では五パーセント、四十六年度では三パーセント弱、四十八年度では四パーセント弱に過ぎない。因に、慶応義塾大学では四十五年度一〇パーセント強、四十六年度一二パーセント強、四十八年度一一パーセントと高い比率を示している。費用がまだまだ高いことが、学生の間で海外旅行が一般化しないおもな理由であったろうが、早慶の対比から分るように、大学によって差が見られるのは、家庭の経済力や校風の違いによるところが大きい。

 四十年代後半には大学生でも自動車運転免許を取得するのが一般化し、四十五年度には三七パーセントの学生が免許証を所持していた。その約半数が大学一年生の時に取得している。

 早慶戦と言えば六大学野球リーグ戦の早慶野球戦のことを指すほど、伝統があり、また親しまれている。戦後もかなり経つと他のプロ、アマのスポーツに関心が集り、早慶野球戦の人気には翳りが生じたが、それでも学苑の学生生活の一頁を彩る行事となっている。ここに早慶戦に関する興味深いアンケート調査の報告書がある(「早慶戦に見る学生意識の今」『新鐘』昭和五十六年十月発行 第三〇号)。調査は、五十六年春の早慶戦が行われている五月三十日、場所は神宮球場と学苑図書館である。それによると、早慶戦観戦は一・二年生が主体で約八六パーセントを占め、かつサークルの仲間で繰り出したのが八六パーセントと圧倒的である。サークルの年中行事と化していることが分る。早慶戦と当日の授業との関係はどうなのだろうか。休講五七パーセント、もともとこの時間帯の履修科目を選択していない者二六パーセントで、両者で八三パーセントにも達する。休講は担当教師の配慮であろう。早慶戦の期間中、事実上授業が行われないことに対し、「理由はともあれ授業が休みになるのは結構」三四パーセント、「伝統的にそうなので仕方がない」二四パーセント、「母校を応援するのだから当然」一九パーセントと、休講許容派は八〇パーセント近くにも上る。これに対し、「納得できない」「授業は行うべき」という批判的な意見は一四パーセントである。早慶戦観戦に行く目的は何だろうか。当然、野球観戦を一番の目的と思いきや、約六〇パーセントの学生が仲間と一緒に騒いだり応援するのを楽しみにしているのである。試合後の酒飲みを楽しみにしている者も一〇パーセントいる。七〇パーセントの者が早慶戦を口実に仲間と騒ぎ酒を飲むことを楽しんでいると言える。試合後の行動は、飲みに行く者が約七〇パーセント、新宿へは約六四パーセントもの学生達が繰り出すという。新宿での学生達は、酒を飲み、校歌を高吟し、あるいはその様子を見物したり、時には他大学生と喧嘩したりして商店・通行人に迷惑をかける者もいる。これらさまざまな行動に対して、本人達は「楽しかった」(六〇パーセント)、「滅多にない解放感を味わえた」(一二パーセント)と答えている。しかし、彼らの行動に対しては毎回学苑に苦情が寄せられているばかりでなく、重傷の怪我人が出ることもあり、常識を逸脱した振舞いが問題となっている。

 さて、学生の持ち物の移り変りを早稲田大学生活協同組合の広告から追ってみよう。勿論、広告であるから購買誘導的な側面も否めないが、当時の標準的な学生の持ち物を踏まえた上でなければ広告として成り立たないのであるから、広告を素材として考えてよいだろう。

 生協の新入生向け広告を見ると、三十二年には角帽、学生服、鞄、レインコートが真っ先に挙げられており(『生協ニュース』昭和三十二年三月二十三日号)、当時の平均的服装が瞼に浮かぶ。卒業アルバムを見ても、皆学生服を着ている。「角帽は大学生の象徴である」といった広告文も見られる(同紙 昭和三十四年三月十三日号)。三十五年秋になると背広が登場してくる。就職活動を意識しての広告と思われるが、「流行色をとりいれ人気呼ぶ背広服」と題して「背広ですてきな秋をたのしみましょう」という記事を載せており、必ずしも卒業予定者に絞った扱いではない(同紙 昭和三十五年九月二十日号)。背広は大学生の必需品の一つとなってきたのだろう。暖房具としては、こたつと足温器が一般的なようである。三十六年にはステレオ・レコード・プレイヤーといった高級品も広告に登場してくる。レコード・クリアランス・セールも行われており、レコードが学生の間で流行していたことが窺える。四十一年の広告にはテープ・レコーダー、そして「下宿・寮生活に」と銘打ってトースター、電気釜、ポット、ヘアー・ドライヤー、電気カミソリといったものが並べられており、当時の下宿生活のスタイルが見てとれる。同じ広告には制帽・学生服と並んで背広、ブレザー、スラックスが掲載されている。卒業アルバムのスナップ写真を見ると、四十年頃を境として、ブレザー、スラックス姿の学生が多く見られるようになった。勿論、学生服姿の者が多いのであるが、服装の変化が確実に進行していることが分る。学生服は、礼服としても、また普段着としても用いることができるまことに重宝な衣服であるが、五十年頃になると、そのように使用しながらも同時にスポーツシャツやスラックス、ブレザー、セーターなどを組み合せて着こなすようになった。「よく目立つのはジーンズというんですか、あれが最近の学生の制服みたいで、今やほとんどもう詰め衿なんていうのは見られません。女の子もジーンズが随分多くなっております」という関西大学教授山下栄一の言葉(「学生の生活環境と意識」『大学時報』昭和五十一年十一月発行 第一三一号 九頁)は学苑の学生の場合にも妥当し、その頃の服装の変化をよく捉えている。大学紛争は一つには既成のモラルの強制や管理体制からの解放を標榜していたが、学生達は紛争を経る中で学生服を管理の象徴と見たので、それを脱ぐことが自分達の反強制、反管理体制の意志を表示することでもあった。それが、ジーンズの流行として現れ、また日本の経済的繁栄を背景にブレザー、スラックスといった高級志向のファッションが主流となり、そこから更に多様なファッションを産み出していくことになったのである。